(archive) 番外編 ヨルダン・ぺトラの夕焼け色の廃墟にて

エル・ハズネ(宝物殿)
写真は後からサイトから足しました


再び、旅行編。ちょっと長いです。 
 イギリスは今年だけ、女王陛下在位50周年を祝うとして、ジュビリーイヤーの休日で6月1日から4日まで4連休とまた、大判振る舞いをしてくれました。通常なら、5月に二回あるはずのバンク・ホリデーは結局これに集約されたようですが、まあ、長い週末をゆっくり過ごせるわけで、今年限りの国民的祝日でした。
 部外者で、無信党派のわたくしは、この休みを利用して、ヨルダン(首都はアンマン。空港もここにあります)にぺトラ散策の旅へと行ってまいりました。
 ヨルダンてどこや?といううちの母みたいな方へ。
 なんと、中近東はサウジアラビアとイスラエルにはさまれた、まさに中近東のど真ん中、にヨルダンはあります。よう、そんなとこ行くなあ、とお思いでしょう。正直、こんなときに行ってええんか?という不安はよぎりました。ともだちみなに無事帰国を祈ってもらい、日本の母(バンコックとシンガポールの位置関係も把握ムリ)には、ヨルダン、アンマン、ぺトラなんて単語を並べても「アンパンマン」としか聞こえないでしょうから、何も言わずに旅立ちました。それでも、ずっと行ってみたかった、ぺトラを共通の目的に、今回は食でない、崇高な目的が一致したわたしと同僚のE (そうです、オリエント急行に乗り遅れたあの彼女)とのジュビリーテーマでした。旅行一緒にばっか行ってるからって、へんな関係や思わんといてな。わたしたちはストレートです???
 ま、それはさておき。本題にそろそろ入ろう。

 旅程はこうです。

1日目。ロンドンより、空路ヨルダンの首都アンマンへ。
    到着が遅いため(しかも遅れた)空港からホテルへ直行。アンマン郊外泊
2日目。すでに頼んでおいた、タクシで、キングス・ハイウェイを観光しながら
    ぺトラまで。
    アンマン⇒マダバ⇒ネボ山⇒死海⇒カラク⇒ワディ・ムーサ⇒ぺトラ泊
3日目。終日専用英語ガイドによる、ぺトラ観光 ぺトラ泊
4日目。ぺトラからタクシーで二時間半!アンマン空港まで。空路ロンドンに帰国。

 なんと、忙しいスケジュールです。飛行機の時間が行きは遅く出て、帰りは昼過ぎくらいのに乗らないといけなく、実質まる二日というもったいない日程でしたが、短いが、凝縮された実りある旅行でした。入ってみると、そんなコワい国でもなんでもなく、ひとは親切、まっとう。紀元前にまで遡る長い歴史に満ち満ちた平和な楽しい国でした。
 ぺトラとその周辺については、いろんな方が手記や旅行記を書かれているようで「村野さんみたいな方いっぱいいらっしゃるのね」。
 なべて考えますとヨルダンは「旧約聖書の国」でございます。別にキリスト教徒でなくとも、いや、ないからこそ、宗教もお勉強しないといけないと常々考えていたのですが、聖書を旧・新も一度読み直してから行こうと思ってたのに、またまたいつものわたし、とはいえ、付け焼刃になってしまいました。
 なんせ、紀元前何千年前、から始まるのですからねえ。すごい国です。またまたここでローマン発見。マダバはビザンチン時代またウマイヤ朝のモザイクを見ることができます。
 またまたローマ人発見。トルコもおるでよ。何千年の時を越えて、このわたしの目の前にある、モザイクの床や、わたしの足の下の同じ土の上をローマ人もトルコ人も通って行ったのだと思うと、感動しないわけにはいきませんやんか。
 ネボ山も旧約聖書の世界。モーゼが眠っていると言われる洞窟や、四世紀の教会跡に建てられたモザイクの教会あり、渓谷からはるか海抜以下の霞に泳ぐ死海も見下ろせます。
 死海の向う岸・ヨルダン河西岸はイスラエル。エルサレムあっち、ジェリコそっちという展望台の標識がその近さを物語ります。
 さてお次はメイン・イベントその二の死海。海抜マイナス394メートルに加え、塩分が普通の海水の4倍という濃度のため、絶対に沈まない。このわたしでさえ?浮きました。わたしが死海で浮くか沈むか、賭けてたひともいるそうな。足の立たないところでふわふわしてると勝手に浮くので、あお向け状態になるのが、安全かな。結構、腹筋力が要りましたね。ここの泥がミネラルを含んでいて、身体にいい、とビーチにおじさんが、全身泥パックをしてあげようとやってくる。はじめひとり2ディナール*と言っていたのに、持ち合わせが2しかないと言うと、二人で2ディナールでやってくれました(半額!)。
 そう、やはり、中東、交渉次第のマーケット。この「半額」ってのがミソ。

作者注)1ディナール=約1ポンド ¥に直すより、ポンドに直す方が換算は簡単。

 全身、眼から上と足の甲と裏以外を真黒な泥でマッドに包まれたおばちゃん二人はしばらく海岸で甲羅干しのように日光浴をして、黒い泥がかりかりに乾いてきたころ、死海の塩水で泥を落としもとのからだに戻りました。
 地元のヒトが行くような、公共ビーチ(その名もDead Sea Rest House, 入場料はひとり8ディナール)に行ったため、他にほとんど観光客どころか、ひともいない。この目の前に広がる死海の視界180度はわたしたち二人の独占ビーチのよう。女性自体が少ない。シャワールーム係りのおばちゃんももちろん、女性はスカーフというのかアタマから全身被っているので、水着なんて着て、顔も手足もほりだして歩いている「女性」というのはわたしたちのみ。あ、水着姿のわたしたちと、泥包み状態のわたしたちを想像することはくれぐれも身体に悪いのでおやめくださいませ。死海に浮くわたしの姿も写真には留めないことにしましたので、撮っておりません。お見せできないのがとても残念でございますが。
 イスラエル側の死海リゾートに行ったことのあるE いわく、そちらの方が、もそっと進んでる、ということです(つまり、ヨルダン側は田舎ってこと!?)。ま、しかし、ここはこれなりに、地元感が出て、よかったです。
 で、けっこう体力使った気になって、次はカラク。これはなにがあるかっつうと、見所は城壁。海抜1000メートルの高台に十字軍時代の城砦があります。
 おにいさんがなぜか途中からついてきて、片言の単語で説明してくれる。このひとなんやろう、と思っていると、別の観光客を案内していたガイドに渡す感じでどっかへ行ってしまった。英語がもひとつだったので、まだ勉強中のガイドさんなのかも。で、次のガイドさんも、ひとり説明を終えるとわたしたちのためにまた元に戻って説明してくれる。
 ガイドさんによると、紀元前から地元民がいたが、12世紀に十字軍が西洋からやってきて、城砦を築き、のちトルコの支配を受け、オスマントルコがやってきて、新たな城砦も築かれたそうです。旧約聖書、十字軍、オスマントルコはなぜか関係なさそうで、この国の歴史を知るキーワードと思われました。石の瓦礫のような城砦は「ここがベッドルーム」「馬小屋」なんぞと言われなければとてもわからない。でもちゃんと、水道の設備(と言っても、水供給のための知恵なのでしょうが、パイプのようなもの)が深い深い井戸といっしょにちゃんと壁を伝って残っています。
 「ぼくの英語わかるか?」と言いながら、丁寧に説明してくれる。これはチップをやらんわけにはいかんが、わたしたちに小銭はない。1ディナールしかない、というと、相場は4ディナールなんやけど、と言って悲しそうな顔するので、ドルなら持ってる、と言う。でも10ドル札。彼はごまかしもぼったくりもせずちゃんとディナールに直して自分のガイド料のチップ代をとったあとは、きっちりとおつりをくれました。
 ネボ山でも入り口のところにおじさん達がたむろしていて、なんじゃいな、と思っていると「ガイドはいらんか」。入場料の二人あわせて1ディナールしか小銭のなかったわたしたちは残念ながらガイドなしで見てまわりました(あとで2ディナール発見できたので、のちの死海で泥マッサージができたのですが)。
 お昼をほんと「食堂」と言った方が正しいとも思えるレストランで地元料理。暑さと運動のあとの喉の乾きをいやしたい異国の女性二人はふとどきにも「きゅうん!と冷えたビール」をごくごくと飲みたかったのですが、ビールはない。モスクの前だから、レストランでも酒類は置いてない。ああ、やはりここはイスラムの国じゃ。酒のどこが悪いんや?こんなおいしいもんを飲んだらあかんやなんて。涙を飲んで?レモンジュースにしました。なんてかわいい。
 お腹もふくれ、いざ、最終目的地、本日のお泊りの地、ぺトラへ。
 途中運転手さんも、さすがにお疲れか(早朝ぺトラからアンマンまでぶっ飛ばして四時間はかかるキョリを来てくれてる)、ちょっとした街の市場のようなところで飲み物調達。またもや、ビールはない模様。運転手さんが、ジュースを買ってくれ、でかい西瓜を買ってあとで食べようと言う。どこで食べるんや?とこのときはそんなに気にしませんでした。
 再びキングス・ハイウェイに戻り、いざ。いざ。
 ハイウェイは飛ばそうにも、ときどき、ベドウィンの羊の群れが羊飼いと一緒に縦断するので、羊渋滞となり大変です。ちょうど、野っぱらから家(テント)に帰る時間だったのかなあ?
 タクシの運ちゃんは毎度のことよとばかりにその羊の群れ隊につっこむようにして道を離れ小麦畑の道なき道を行きます。どこへ連れて行くねん、と思っていると、がけっぷちのようなところで急停車。おお、目の前には断崖絶壁、風光明媚のワディ(渓谷)が広がっとるやありませんか。遥か視界の彼方、渓谷の裾野には村が見えます。なんと清々しい景色。昼間は暑かったのですが、夕方になると、風がでてきてさすがにちよっと涼しげ。
 運ちゃん、やおら、どこに隠し持ってたか、ナイフを取り出し、きゃあ、何なに?と思っていると、さっき市場で買った西瓜をざくざくと切り出した。その芸術的な切り方。縦割りにいくつも切れ目を入れて、真ん中の赤いところだけ取り出して、ほい食えって感じでくれる。まあ、この風景の中、右は断崖の渓谷風景、左はタクシの横には小麦の穂畑。この自然の中、赤い甘い西瓜をほうばる。なんて幸せ~。
 こっちのひとってみんな、「結婚してるかどうか」を、聞くのですね。「元気?お名前は?」のあとは「結婚してるの?」
 既婚者には手を出せない戒律の宗教の国ですから、自分を守るため?「結婚してる」と言った方が身の安全かも?とも思いました(なんてもったいないことをとお思いのおせっかいなともだちもいると思いますが)。独身だというだけでもてる?
 西瓜にかぶりつきながら、お互いの身の上話をしていると男の子がやってきていっしょに西瓜。わたしたちはてっきり、運転手さんの子供か、知り合いと思ったのですが全然知らない子だそう。なのに、ひとしきり話して、残りのほぼ半分の西瓜を持たせてやったのです。彼は14歳だそうで「どう?」なんて、運転手さんに冗談ぽく言われてしまいました。
 ぺトラのホテルは遺跡観光の入り口のすぐそばの立派なホテルです。プールやジムなどもあり、こういうところでゆっくりするのもいいかも。でもわたしたちには二泊しかない。
 明日のガイドさんの予約を確かめていざ就寝。今晩はよく眠れることでしょう。
 翌朝。ビュッフェの朝食レストランはスペイン人の団体でごった返していました。そういえば、イングリッシュ・ブレックファーストとか、和朝食とかはあるけど、アラブ式朝食ってどんなんやろ?
 さすがビュッフェスタイルで、いろんなものが置いてありますが、アラビアらしいってのはオリーブとか、地中海風野菜の煮こみとか。ナンやピタパンのようなパンもあります。豆入りスープのごった煮みたいなのや、ヨーグルト。チーズ。ギリシャやトルコにも似たものがありますね。でも、昼も夜も似たようなのがでてくる。
 さて本日は今回の旅行のメイン・イベント。ぺトラ観光。
 やってきたガイドさんは、サンダル履き。きのうの運転手さんに、明日ぺトラへ行くんやったら、そんな靴(スニーカー)ではあかんで、と言われたのに、このガイドさんは「素足にサンダル」。「暑いから帽子と水は必携」とガイドブックに書いてあった。このガイドさんは半そでのT シャツにジーンズで、帽子は「アンマン」のロゴ入り、キャップのような帽子で、それにサングラスで、サンダル。あと「てぶら」。
 入り口で一日券、入場料11ディナール也を買ってもらいいざ出陣。二日券、三日券ってのもある。ここに三日滞在する価値があるのだろうか、といらちの関西人は思う。
 はじめの1.5キロはシク (Siq) と呼ばれる断崖絶壁の渓谷の底に水無し川のように続く砂利道を行きます。馬や馬車でも行けるのですが、行きはガイドさんの説明を聞きながらぼちぼち歩きます。幅はいろいろで、一番狭いところでも5メートルくらいはあるかな。馬車が通れるはずです。古代も通り道だったようで、また、絶壁の底に水道として水の通るパイプのようなトユのようなもの(岩製)が、岩場の両側に続きます。上下二段に分かれているところもあり、上は、飲み水用、下のは主にその他使い用です。上水道、下水道ですね。
 途中人間とらくだの下半身と足だけ残っている岩場の崖の彫刻を説明してくれて、その男性のサンダルには中国製のマークがついてる、などとガイドは冗談も言いますが実際に古代から、中国との貿易でシルクロードを通り、はるばるこの地に来た遠来の物品もあるようです。
 そうやって落ちてきそうな、岩の塊などを見据えて30分も歩くと、突然視界が開け、バラ色の都市と賞賛されたことがわかる、ローズ色の神殿・エル・ハズネ(ハズネのハはアラビア語のカとハに近い、喉の奥から出す音です。宝物殿という意味ですが、お墓です。ピラミッドもそうですが、昔は高貴な人のお墓に宝石や貴重品などをいっしょに埋葬していたというから宝物があったのかもしれません)。それ以上にここが有名なのはハリウッド映画より。ハリソン・フォード様の「インディー・ジョーンズ、最後の聖戦」の舞台となったのです。ハリウッド映画がロケにきたのは、またもや十字軍がここも訪れ戦ったことにも起因しているとガイドさんの談。
 巨大な岩のお墓が並び、洞窟都市のような、家々が外見だけ残る砂漠の廃墟。円形劇場あり、祭壇あり。丘の上から見下ろすと、あれがメインストリート、教会、あれがお寺と、まさに古代都市の幻を集約しているかのようです。
 北の端の階段900段くらい登ったところにエド・ディルという修道院跡があり、それも必見というので、そこに行きたいとリクエストしました。ガイドさん、自分の足で登りたくないのか、ロバで行こう、としきりに進めます。すでに、帰りの馬車を20ディナールで予約してしまったわたしたちは、これ以上、カネを出すのを惜しみます。休憩のお茶屋さんで1ディナールもする紅茶とコーヒー(濃い粉の残るトルコ式)を飲んでいると、横手の宝石売りのおじちゃんが、トレイに並べて売りにやってくる。「観光が落ち込んで観光客が少なくて商売あがったりやさかいに安うすんで、ねえちゃん」とこれ、あれ、とブレスレットをとっかえひっかえ、腕にはめてくれ、進められるのだが、今ひとつ乗り気でないわたし。
 このブレスレットは、貝パールにマルカジットの装飾や。30ディナールでどや?
 30ディナールねえ、これが。。。10やったら買うかいなあ。いやいや、ここで値切り始めると買うはめになるから、ひたすらノーと言う。
 ガイドさんはこのあたりに知り合いが多い。近くの茶屋で、お客と見るとロバ使いたちがわたしたちめがけて寄ってくる。そのうちのひとりにプロポーズされましたわよ。
 「ぼく嫁さん捜してる。ぼくと結婚したら駱駝5頭あげる」
 となりのロバ使い。「そう、彼は金持ち、らくだ5頭も持ってるあるよ」
 わたしたちは負けじと「二番目の亭主を捜している」ことにしました。
 そう、イスラム教では四人まで奥さん持てる。だから西洋社会では、だんな四人まで持てる。なんて冗談を言いながら(わたしゃ、日本人なんですがね)。
 嫁ご捜し中のそのおにいちゃん、「ぼくが駱駝を持ってるってことはきみのお父さんに自慢できるよ」「そうだ、そうだ。一頭何十万ドルするんだぜ」
 ああ、父が生きていたら、きっと自慢の娘が「らくだ5頭」と引換えにされたかもしれないことをなんと思うことでしょう。未婚のままの方がまだ親孝行と思うかも。はは。
 惜しいことをしたとも思わず、振り切って、先に進むことにします。
 やはり、900段の階段はロバにしました。はじめひとり10ディナールと言っていたのが、昼をさがすころには、二人で10と半額!(半額に弱い)よっしゃ、乗ってみようやないか、とこわごわロバ初体験。
 小柄だが、けっこう値を踏む?わたしたちを乗せ、ロバちゃん、出発。砂利まじりの石の階段は幅がせまくて急だったり、右手は崖っぷち、なんてとこもあって、振り落とされたらどうしようとひやひやもの。ロバと心中だけはごめんよ。
 わたしがけっこう重いのか?年寄りのロバだったのか、はあはあと息を切らせながら登っていきます。ごめんねえ、重くて。階段を駆け上がるという感じで、ジャンプに近いような登り方で、きっと股ずれしますね、これって。
 で、ときどき、まっすぐの直線広場に出ると、ロバ使いのムチに刺激されてか、突然走り出そうとする。これまた、きょわい。待って、待って、ゆっくり行ってよ。振り落とされたらしゃれにもならん。
 夕焼けのホテル。
 泊ったホテルの別館が、丘の上にあり、室内プールとそこから見る夕焼けがきれいだというので、ホテルのシャトルバスで行きました。そこはわたしたちの泊ったホテルより小規模で部屋数も少なそうでしたが、なんと、その日の泊り客ゼロ。
 着いて、プールに行きたいというと、降ろしてくれたバスの運転手さんと、プール係とボーイさんと三人くらいがわたしたち二人のために、つきっきりで奉仕してくれる。はい、ここが、シャワールームでございます、お飲み物はいかがですか、タオルはこれでございます。だれもいないプールでわたしたちのために、ジャグジーのような、バブルのスイッチを入れてくれ、プールサイドの庭に出ると、ついてきてくれて、わたしたちが景色を見てるまでじーっと横に立って待っていてくれる。
 泳ぎ終わったあとは、ボーイさんがやってきて、いいところにご案内しましょう、と庭を通り二階にあるテラス・レストランまで案内してくれる。今日は泊り客がいないので、できたらこっちに泊ってほしいな、と言われてしまいました。レストランの横がバーになっていて、バーのテラスから夕焼けが見えるようになっています。二人しかいないので、とっても恐縮だったのですが、わたしたちのために特別のカクテルをつくってくれました。夕焼けを見ながら専用給仕付きで、なんてロマンチックなの。おんな二人で!
 夕食はどうしよう、ここだとだれもお客さんいないから、悪いよね、と言い合い、どうしてもラムの食べたかったわたしは、ラムを食べさせるローカルのレストランがないか聞いてもらったのですが、ここのウェイターさんが、ここでつくると言います。
 「わたしたちのために特別メニューで作ってくれるかどうか、キッチンに聞いて」くれたのです。まるでV.I.P. 扱いに満足なわたしたち。
 バーのテーブルにわざわざテーブルクロスやカトラリーを並べてくれ、専属給仕。
 ほんとにこの国の男性には驚かされます。わたしはついつい、都会人なので?裏を考えてしまい、構えてしまうのですが、へんな方に思うと単なる親切だったりして、素直に考えられないところが悲しいかな。
 昨日の運転手さんも、ホテルまで送ってくれてそれでその日の彼の仕事は終わりなのに、そのあと、夜景を見に連れて行ってくれるという。
 そんな夜にでかけて、へんなことでもされたら???なんて、わたしは思いましたが、世話になったしジュースのひとつでもと思い(わたしたち式だと、まあ、運転手さん、お疲れやし、一緒にビールでもどないです?なんていうとこですが、それが通じない。酒は飲まないのです。コーラでもいかがです?となる)行くことにしました。途中で、わたしたちには缶ビール、自分にはコーラを買って、丘の上をどんどん登って行く。高台のようになっていて、家族連れとかも車で来ている。夏になると、地元民がよく、ここまでバーベキューをしに来るそう。これまた夜景を眺めながら、ビールで喉を潤す。悪気ないのよ、このひと。E いわく、ホテルから雇っているひとだから、信用でへんなことはしないだろう。そう、それは正しい。
 このバーのおにいちゃんも、とっても親切で、サービス精神旺盛。ひとしきりしゃべったあとは、ともだち感覚となり「結婚してるのか」どうか、と聞きました。わりとかわいげなこのおにいちゃんを気に入ったE は独身、わたしは婚約中とあいなり、その結果、E はこのおにいちゃんに集中的に気に入られたようです。わたしはじゃまかなあ、と思ったほど。
 食事が終わって、わたしがトイレに立ち、まずいかなあ、と思いながら戻ってくると、ほら!二人がいない!外のテラスでへんなことしてんやないやろなあ、とガラスの扉をこわごわ、のぞくと、あ、二人いた。おいでおいで、と言う。
 外に出ると、なんと、満天の星空!
 降るような星が夜空にきらめいています。まわりに電灯や光がないため、☆だらけなのです。彼はこれをわたしたちに見せたかったのです☆
 そのあとわたしたちと同じホテルに泊っているという四人組みがやってきました。良かったねえ、お客さんが増えて、と万歳三唱。ロンドンから来たというそのひとたちも、でも、ドリンク飲んで、すぐに退散したので、また客はわたしたち二人のみ。アラビア音楽をバックに専用ディスコ状態。そろそろ、帰る時間だよ、とフロントの人が来ました。なんと、わたしたちを乗せてくれたホテルのバスの運転手さんが、わたしたちが帰るまでずーっと待っていてくれたのです。くだんのウェイターさん、まだ帰らないでよ、食後のコーヒー出すから。ぼくのコーヒーはおいしいよ、運転手待たせときゃ、いい、と言う。で、彼も仲間に入れこみ、四人でアラビアン・ダ~ンス。とってもおいしい、ヨーロピアン泡立ちコーヒーを入れてくれ満足。満足。
 なんてアットホームでフレンドリーなホテルなの。ホテルごと、フレンドリー。
 帰りのバスの中でも運転手さんは、西洋ディスコ・ミュージックをオンにし、歌いながら踊りながら運転してました。途中で、知り合いに会い、車ごと寄せ合ってひとしきり雑談という場面もここではよくあるようです。
 ぼくの兄弟がホテルの近くでみやげ物屋してるから、ちよっと見ていかないか?
 でももう夜も遅いし、明日もあるから、このまま、帰る。
 昨日のタクシの運転手さんの弟がわたしたちの泊ったホテルのベルボーイしてて帰りついたとき、出てきてくれたし、ガイドさんのおじさんは旅行会社してると言っていたなあ。みんなファミリーで近くにいて、住んでて、また、けっこう商売熱心。ガイドさんいわく、最近からのイスラエルの紛争で観光人口はがた落ち、ヨルダンは観光産業が13%を占めると言ってましたがほんとに給料がでなくて困るって。どんどん、お客を運んでほしい、と言います。
 観光名所の遺跡やこの国の歴史にも感動しましたが、旅行ってひとと会える、というのも醍醐味のひとつですね。
 この国では、へんな下ごころなく、話ができるひとが多かったです。みんなきさくで、声をかけてくれ、しゃべりたいようです。折りしもワールドカップの影響もあってか「日本人」として、もてはやされ?ました。みんな、「こんにちは」「さよなら」などの片言の日本語は知っています。わたしたちはせっかく教えてもらったアラビア語の挨拶のことばや、単語をすぐさま忘れてしまいました。旅行中に会うホテルの従業員や、ガイドさんたちの人柄でもその良し悪しが左右されます。またこんな楽しい実のある旅行を続けてみたいものです。

2002年6月15日               
© Mizuho Kubo , All rights reserved…..June 2002

写真は2020年にたまたま動画を見ていたら、NHKスペシャルで発見。
動画から拝借しています。


こんなのだったのかなあ、と今更感心しています。空からは見れないからこういう番組で確認するのもいいのかも。




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