リゴレットの舞台・マントヴァ
テ宮殿 |
マントヴァ(で、統一表記します)はなぜ行きたかったか、というと、オペラです。
リゴレットというオペラの作品(ヴェルディ作曲)がマントヴァ舞台なのです。おりしも、去年だか、バリトンに転向したドミンゴ主演のライブ映画「リゴレット」を見、You Tube ( Rigoletto Mantua とやれば、出てきます)でおさらい。ちなみに、マントヴァはイタリア語、英語ではなぜか、マンチュアと呼びます。
3つの湖に囲まれた風光明媚な土地です。中世の建築物も楽しみです。
Andrea Mantegna アンドレア・マンテーニャ。建築家、画家、アーティストかな。
(1431 – 1506 )
パドヴァ近くの小さな村に生まれ、マントヴァ候ゴンザーガ家に使えた画家 。
マントヴァのデュカーレ宮殿の「結婚の間」(イザベラ・デステがフェラーラから嫁いだとき)
また、夏の離宮、テ宮殿の装飾を請負ったことで有名。
市内に家も残っています
ボローニャ駅 |
マントヴァのホテル アパート形式でした |
ホテルにチェックインし、街を散策。街は広いけど、足で回れる大きさです。まずは一番の見所が並ぶドゥオモ(大聖堂)のある、エルベ広場目指します。
広場はしゃれた観光客用のテラスのレストランがところせましと並んでいます。
必ず鐘楼(ベルタワー)がありますね。アイスクリーム屋さんも。
左がドゥオモ(大聖堂) |
こちら、レストラン |
ドゥカーレ宮殿入り口 |
庭は一般公開 |
余談(翌日も夕食行った、ボーイさん、覚えててくれて、ガーリックピッザと食後酒のレモンチェッロをサービスしてくれたわー)。
ここでー、ドミンゴが歩いたと同じポーズを取ってみるー。
宮殿の中は撮影禁止なので。
オーディオガイド(日本語があった!)が役にたったけど、日本語だと、人間関係の説明がまわりくどくてわかりにくいってこともありました。やっぱ歴史は予習・復習が大事?
オーディオガイド(日本語があった!)が役にたったけど、日本語だと、人間関係の説明がまわりくどくてわかりにくいってこともありました。やっぱ歴史は予習・復習が大事?
あとから You Tube おさらいしたら、最初の舞踏会の場面は「馬の間」でしたー。
リゴレット(ドミンゴ先生)が支度をするところは、有名な「巨人の絵」が背景。ギリシャ神話に基づく絵です。
ここはもともと、部屋がたまご型だったそうで、何に使われたのかはわからないそうです。映画「リゴレット」では主人公が支度をする控えの間のような使われ方をしていました。
「馬の間」 |
ゴンザーガ家自慢の馬の絵が 背景の壁に注目! |
「巨人の間」 |
リゴレット(ドミンゴ先生)が支度をするところは、有名な「巨人の絵」が背景。ギリシャ神話に基づく絵です。
ここはもともと、部屋がたまご型だったそうで、何に使われたのかはわからないそうです。映画「リゴレット」では主人公が支度をする控えの間のような使われ方をしていました。
テ宮殿は 領主フランチェスコ II・ゴンザーガ と イザベラ・デステの嫡男
このひとは1530年 マントヴァ公を受爵。
体が弱かったらしく、強いものにあこがれてたみたい。
鷲の部屋が寝室だったり、トカゲ(リザード?)を好み、これを紋章にしたり、部屋の装飾にしたり、でたくさん、トカゲ?イモリ?サラマンダー?が見られました。生きてるのも見ましたー。
似たようなもんか?マントヴァは湖に囲まれてるからやはり、サラマンダーなんでしょうか。
公と侯の違い?
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の順らしい。中世イタリアの爵位についてはまたの機会としましょう。はしょる、はしょるー。
フランチェスコ II・ゴンザーガ (Francesco II (or IV) Gonzaga 1466 - 1519) 。
妻はルネッサンスの擁護者イザベラ・デステ(Isabella d'Este 1474 - 1539)、愛人はルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia 1480 - 1519)だって。
ルクレツィアの3人目の夫は イザベラの弟であり、実家フェラーラ公を継いだアルフォンソ・デステです(ルクレツィアはこの方の2番目の妻やけど)。
ということは、イザベラにすれば自分の義理の妹が夫の愛人ってことよねー。
これだけでお話でけそーやなー。イギリスの歴史もこのあたり、おどろおどろしてますのですが、ここもややこしーそう。イタリアの歴史も勉強しよっと。そ、イタリアも深いな。
フランチェスコ II とイザベラの息子が前述のテ宮殿を改築したひと。
フランチェスコⅡ世・ゴンザーガ |
妻・イザベラ エステ家より嫁入り |
愛人・ルクレツィア ボルジア家の娘 |
イタリアという国ができたのは19世紀になってからで、それまではちりじりの国がいっぱいありました。フェラッラしかり、マントヴァしかり、ナポリも。ローマも、イタリア半島の中のローマといういち公国だったのです。
チェーザレ・ボルジアって何をした人?
ルネサンス期の群雄割拠時の軍人で小説にも出てくるイタリア半島を統一しようとしたチェーザレ・ボルジアの妹がルクレツィアです。
ウィキで調べれば出てくる、出てくる、ですが、それやってるとこの記事終わらないので、はしょります。ルネサンスの華、メディチ家はフィレンツェです。同時期の話です。
ウィキで調べれば出てくる、出てくる、ですが、それやってるとこの記事終わらないので、はしょります。ルネサンスの華、メディチ家はフィレンツェです。同時期の話です。
イギリスの14-15世紀というのも、バラ戦争終わって、テューダーに入るあたり。日本は戦国時代。全世界、戦いの時期だったのねー。イタリアはルネサンスが花開き、宗教もどす黒くからみ、荘厳な?時代だったんですなー。
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